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印象に残っているキスシーンはと聞かれれば、おそらく多くのひとは映画かドラマのワンシーンを思い浮かべるだろう。やはり、生身の人間の演ずる、愛をむすぶ物語があって、その到達点として描かれたキスは、なんともいえない麗しさがみてとれる。が、なんとなく、ハリウッド映画のキスというのは、時代劇でのチャンバラごっことおなじに、お約束だという気がするので、ここでは割愛する。
私が推奨するのは、美術作品に描かれたキスだ。昨年だったか、「美の巨人たち」というアート番組でキスを扱った絵画・写真の特集をしていた。日本とは違いおおっぴらにキスを描くことに長けている欧米であるが、意外なことに、キリスト教が支配した時代の西洋美術では、純血を旨としていてキスは神への捧げものとされた。神話や宗教を主題とした絵画ではいたしかたないことであったろう。美術史上、キスが人間の愛情表現として人間の側に降りてくるのは、やはり近代を待たねばならない。キスを描いた近代画家といえば、グスタフ・クリムトが有名だ。番組では、クリムトがベートヴェンの「歓喜の歌」に感化されて制作した大スケールの壁画「ベートヴェン・フリーズ」を紹介していた。それは人類史上最大級のキスを描いた作品なのだという。
私が記憶する最初の芸術的なキスといえば、中学校の美術の教科書に載っていた、マルク・シャガールの有名な一九一五年作「誕生日」。

前を向いていた女性に、身をくねらせた男性がキスをしているという、キテレツとしかいいようがない構図である。あきらかに現実でこのような体勢はとれるはずもなく、子供心に羞恥心というよりは、なにがしかふしぎな気がした。ふつうに少女漫画などで美しく唇をかさねる恋人たちのシーンは目にしていたけれど。
男の足先は、女とは反対側を向いている。女が贈られたブーケを飾ろうと歩みだした、その隙をついて唇を奪ったものと推察される。その不意打ちというシチュエーションからして、なんとも艶かしく、どきりとする。とはいえ、こんなに宙を舞ういきおいで、愛しい彼女をもとめてくちびるから動いたという男の欲望に、卑猥さは感じられずに、洒脱なものを感じた。抽象的な画面のつくり、赤を基調とした彩色に、黒や緑、白といったメリハリのついた色合わせと、幻想的なタッチが、いやみを感じさせない。彼の絵がおしゃれなファンタジーとして人気を博しているのも、この軽妙な作風に理由がありそうだ。
芸術作品のキスとして、私がお気に入りなのは、彫刻にされたキスである。「考える人」でも名高い近代彫刻の父オーギュスト・ロダンの「永遠の青春」は、そのロマンスめいた名にたがわず、見る者をして恍惚とした境地にいたらせる傑作のひとつである。

裸の男女が抱き合い、接吻をする。男の手は女の腰を熱く引き寄せていて、女は男の首に腕をまわして積極的に愛をもとめている。かなり大胆でなまなましい構図である。あきらかにセクシャルな行為を思わせる。ロダンといえば、サロンに出品した「青銅時代」があまりに真に迫っていたがため人体から直接型取りしたとの嫌疑をかけられ、以後等身大の彫像は避け、異常にデフォルメした関節や筋肉の造形をおこなったことが、有名なエピソードだ。逆にその一件が、躍動のロダニズムを生んだ。古代彫刻を模刻しただけのムーブマン(動勢)に乏しいアカデミズムから脱し、生き生きとしたフォルムと肉感をものとして、彫刻における近代化の道をひらいたのである。
さて、最後にもうひとつ珠玉の彫刻をご紹介しよう。ルーマニア出身で二〇世紀を代表する彫刻家とほめそやされているコンスタンティン・ブランクーシの「接吻」(一九〇八年)である。

ロダン翁の工房で働いたこともあり、フォルムの簡素化と人体部分の複製・反復という遺伝子をうけついだブランクーシは、二〇世紀アートの申し子であった。この接吻は以後四〇年の長きにわたってつづくシリーズの第一作にあたる。〇七年にはじめて石の直彫りという、おそらく当時の最先端アートシーンにあっては時代遅れとされた技法に還って、厳しい制作をはじめ、それを生涯のスタイルとしたブランクーシ。接吻という主題は、彼のその彫刻観とくんずほぐれつの関係をもっていたといえよう。この初期作では、まだしも口づけを交わしあう男女の腕や、髪の模様など、まだ身体はそれとわかる程度に分節化されてはいる。が、時代を経るごとに、ふたりのからだは丸みと厚みをうしなって融けあい、ひとつの立方体の石塊へと変貌してゆく。
男も女もなく、ふたりの人間はひとしく合体し、ひとつの存在となる。それはひじょうに深い愛のむすびの喜びを、抽象化して表現せしめたといえよう。この接吻シリーズは、おそらく、ロダンの先行作をヒントにしたものと考えられる。また、この「接吻」のあわさったふたりの唇や瞳の部分は、のちに「接吻の門」や「沈黙の円卓」へと進化をとげるのである。


ルーマニアのトゥルグ・ジウには、第一次世界大戦没兵士記念碑として、これらに「無限柱」をあわせた三作品が設置されている。
このようにみると、キスというのが、いかに形をかえようとも、芸術作品において主要なテーマであったかがおわかりであろう。キスとは愛し人への愛情表現であり、かつお慕い人への敬意の表明であり、また神への忠誠の証でもあった。そしてまさに、そうした愛や敬いこそが,数々の芸術文化遺産を輩出してきたのである。
ところで、昨年十月に三億円の絵画に、キスマークをつけて逮捕された女性アーティストがいたという。彼女は作品に対する愛情表現であって破壊行為ではなかったと主張しているが、対モノだけではなく、一方的に愛を捧げ対象を汚す行いは暴力に他ならないわけだ。愛を叫ぶなら、それをみずからの表現力でかたちにして示せばよかったのである。あまたの芸術家がそうしてきたように。
「接吻の門」は、毎年ヴァレンタインになると恋人たちがキスを交わす愛の聖地ととして、有名なのだそうだ。
ほんとうにすばらしい作品は、想いつうじあった人間の美しい愛をひきよせるものなのだろう。
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